手書き文字の形について。 TOP
1、古来から順次、洗練されて来た文字造形。 古典の( 三 ) 字から
各図の下部は時代・作者・出展・作成年になります。  
後漢(25〜227)
許慎 ・説文解字
説文(せつもん)
説文は許慎(きょしん) が漢字を 『 六書 』 に分けその起源と意義を解明 し秦から
篆書(てんしょ)体でまとめた字書で (三)は 『 指事 』 になり、数量を象徴的に表 し
(一〜四)までは算目( )を横に並べたそのままの姿になっています。
後漢の安帝の頃(100年)と推定( )されています。
後漢・張遷碑
  (186年・刻)
張遷碑(ちょうせんひ)
説文の篆書にくらべて上の横画がやや短くなっています。格式ばらず文字
を実用として多く使用されるようになると簡易で早く書けるように出来たのがこの隷書(れいしょ)といわれています。隷書にも色々な書風があり、張遷碑は分類上、後の 『 八分 』 ( )といわれる隷書になりますが、この(三)だけをみると古い隷書のように見えます。
後漢・礼器碑
  (156年・刻)
礼器碑(れいきひ)
これも代表的な隷書ですが上の横画二本が短くなり、下の長い横画は装飾的な波勢をつけています。これを 『 八分 』 と呼ばれ俗にいう隷書で典礼や公式用に限られ一般にはあまり使用されなかったといわれています。
隷書が発生した用途からかけ離れ、当時の美意識から威厳のある体になっています。その後は簡単な筆使いの楷書風になり整理 しますと、
『甲骨文』⇒『篆書』⇒『隷書』(古隷・八分)⇒『楷書』 と変遷 していきます。
北魏・魏霊蔵造像記
(500年・推定)
魏霊蔵造像記(ぎれいぞうぞうき)
造像記は雲崗や龍門などにある石窟の仏像を造った由来などを記 した文字群で隷書から楷書に移行する過渡期の書体といえます。起筆は隷書に見られる穂先の巻き込みが無くなり、少しアヤをつけるように穂先をため込んで引き抜いています。また、終筆は隷書のようにはね出す手法がなくなり、角張って力強く全体に精悍な北方の騎馬民族の風貌を思い起こさせます。
北魏・高貞碑
(523年・刻)
高貞碑(こうていひ)
同 じ北魏の書ですが初期の造像記に見られる野性的な書風にくらべると洗練され理知的なものになっています。しかし、その後の文字に較べると上の二横画がまだ長く、全体の各文字を眺めても重心が低いためベッタリ した感がします。
東魏・敬使君碑
     (540年・刻)
敬使君碑(けいしくんひ)
それまでの古い書にくらべ、起筆が込み入ってなく自然で、線が細くなり、上の二横画も短くなってスマートでシャープな感がします。この書について後人はその後に輩出する歐陽詢(おうようじゅん)(ちょすいりょう)の前駆と称 しています。

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以下は唐の三大家の書いた文字で今日の楷書はこの三名の典型によって形成されています。虞世南(ぐせいなん)孔子廟堂碑(こうしびょうどうのひ)はその伸びやかさに特徴があり南派といわれるように優 しくありながらも内に剛を含んでいると評されています。歐陽詢(おうようじゅん)は北派で厳 しく外に筋骨を表 し、中でも特に九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい)は直立不動の緊張 しきった姿で空間の取り方と共にこれ以上どうする事が出来ない程の計算( ) し尽された書になっています。また(ちょすいりょう)雁塔聖教序(がんとうしょうきょうのじょ)は、うねりのある線と曲線が目立ち、横画の起筆は隷書( )の趣きを残 し、楷書の草書( )といわれています。
唐・虞世南
(558〜638)
孔子廟堂碑
唐・欧陽詢
(557〜641)
九成宮醴泉銘
唐・
(596〜568)
雁塔聖教序
   
左の画像をクリックでその
文字群をご覧になれます。




このように見てきますと文字はその書き易いという用途により 『 篆書 』 から 『 古隷 』 に変化し、美的な観点から更に変化した正式な公用書体の 『 八分 』 になっています。
そして、その筆先を巻き込む面倒な動作を無くし実用に適した 『 楷書 』 になります。 『 楷書 』 は唐の初めにその頂点に達 しますがその初唐における任官、官僚になるためには 『 楷書 』 が立派に書ける事がひとつの条件とされ、そのような時代背景から多く書かれ三大家が輩出 し各人がその人らしい独自の 『 楷書 』 を完成させています。後人の評に 『 唐の書は法を(たっとぶ)ぶ 』 と言われている通り、この 『 楷書 』 が発達 し様々な書法が氾濫 していた時代( )になります。
画像は、拓本の白黒を反転しています。
( 二玄社・書源、書跡名品叢刊 ) ( 清雅堂・孔子廟堂碑 ) などから掲載
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